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最高裁判所第一小法廷 昭和53年(あ)1295号 判決 1981年4月30日

主文

本件各上告を棄却する。

理由

弁護人上田誠吉、同山田一夫、同橋本敦、同細見茂の上告趣意第一点ないし第四点について

昭和四二年法律第一一号による改正前の関税法一一八条二項の規定が所論のような理由により憲法三一条、三六条、二九条に違反するものでないこと及びいわゆる差額関税の逋脱事件である本件について関税法の右規定にしたがい輸入貨物全体の価格に相当する金額を追徴した原判決が所論のような理由により憲法三六条、二九条、三一条に違反するものでないことは、当裁判所の判例又はその趣旨とするところであるから(昭和四一年(あ)第八〇九号同四五年一〇月二一日大法廷判決・刑集二四巻一一号一四八〇頁、昭和三七年(あ)第一二四三号同三九年七月一日大法延判決・刑集一八巻六号二九〇頁、昭和三一年(あ)第三四三七号同三三年三月一三日第一小法廷判決、刑集一二巻三号五二七頁、昭和三四年(あ)第一五八二号同三五年二月一八日第一小法廷判決・刑集一四巻二号一五三頁参照)、所論はいずれも理由がない。

同第五点について

所論は、事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

なお、所論にかんがみ職権をもつて判断するに、昭和四一年法律第三七号による改正前の関税定率法四条三項にいう「最近に輸入港に到着した」とは、当該輸入申告の時に最も近い日に輸入港に到着したことをいうと解すべきであるが、昭和四一年二月一四日から同年三月二九日までの間前後一一回にわたつて輸入申告の行われた本件貨物の通常の運賃については、これを同年一月初めから同年三月末までの同種又は類似の貨物の輸入実績に現われた運賃に基づいて決定することも違法ではないと解するのが相当である。

同第六点について

所論は憲法三一条違反をいうが、関税法一三八条一項但書一号の規定が所論の趣旨で不明確であるとは認められず、また、右規定がその適用上所論のような矛盾、不合理を招来するとも認められないから、所論は、前提を欠き、適法な上告理由にあたらない。

同第七点について

所論は憲法一四条、一九条違反をいうが、記録によると、本件につき税関長が通告処分をすることなく直ちに検察官に告発したことに違法はないと認められるから、所論は、すでにこの点において前提を欠き、適法な上告理由にあたらない。

よつて、刑訴法四〇八条により、主文のとおり判決する。

この判決は、裁判官団藤重光の上告趣意第四点についての補足意見、裁判官藤﨑萬里の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

裁判官団藤重光の上告趣意第四点についての補足意見は、次のとおりである。

罪刑の均衡は、法定刑と宣告刑と、また、本刑と附加刑とを問わず、憲法第三一条の適正手続条項によつて要請されるところであつて、不均衡に重い刑罰は、極端なばあいにおいては、憲法三六条によつて絶対に禁止される「残虐な刑罰」にさえあたるものとして違憲とされなければならないであろう。

ところで、本件で問題となつている昭和四二年法律一一号による改正前の関税法一一八条一項・二項によれば、同法一一〇条(本件犯罪事実は同条一項一号前段に該当する。)の犯罪に係る貨物は必要的な没収の対象とされ、もしこれを没収することができないときは、その価格に相当する金額を必要的に追徴するものとされていた。右改正による新規定では没収の対象物件を輸入制限貨物等にかぎることになつたが、旧規定にはこのような限定がなかつたため、逋脱税額との対比において対象貨物の価格が不均衡に高額であるばあいに、必要的な没収・追徴が時に非常識ともいうべき結果を生じることがあつたのである。本件は、まさしく、このような事例のひとつであつた。

したがつて、第一審判決が「いわば超法規的(広義の)刑罰阻却事由があるものとして」「残虐な刑罰を禁じている憲法三六条の規定の精神と法の基底とする正義と衡平の理念に照らし」被告人らに本件追徴を科しないものとしたことも、その趣旨を理解することができるわけではない。原判決は「超法規的刑罰阻却事由」の理論は三権分立のたてまえからも許容されないものとするが、解釈上の根拠があるかぎり超法規的な処罰の阻却もありうることは、すでに名古屋中郵事件に対する当裁判所大法廷判決も認めているところである(昭和四四年(あ)第二五七一号同五二年五月四日大法廷判決・刑集三一巻三号一八二頁、とくに二〇七頁以下)。

しかし、ひるがえつて考えると、前記改正は本件にみられるような不都合な事態が生じることを避けるために行われたものであり、しかも、立法者が改正規定の効力を遡及させることができたのにかかわらず(刑法六条参照)、とくにこれを遡及させないこととしたのは(前記改正法律附則八条)、おそらく改正規定の遡及適用によつてすでに判決や通告処分の確定した事件とのあいだにかえつて不公平を生じるであろうことも考慮したものと憶測される。そうすると、第一審判決のいわゆる「正義と衡平の理念」からいつても、第一審判決の結論が正しいとはいえないのである。しかも、本件事案を具体的に点検すると、被告人らの犯罪の情状はかならずしもそれほど軽いわけではなく、関税法における一般予防の必要性をも考慮するときは、単に逋脱税額と追徴額の対比だけをみて罪刑の極端な不均衡があるとまではいえないとおもわれる。上告趣意第四点は、結局において理由がないものというべきである。

裁判官藤﨑萬里の反対意見は、次のとおりである。

上告趣意第四点について団藤裁判官がその補足意見で述べておられるところは、原判断を支持する立場の説明として委曲を尽くしているが、私はなお多数意見の結論に賛同することができず、原判決を破棄すべきであると考えるものであつて、その理由は次のとおりである。

昭和四二年法律第一一号による改正前の関税法一一八条は、そこに定められている特別の場合以外は必ず没収又は追徴すべきことを定めているものと解するほかないであろうが、そのように解釈する限り、たとえ没収・追徴を科するとすれば懲罰として過酷になることが明らかな場合にもなおこれを科することにならざるをえない。しかるに、一般に過酷な刑罰を科することは、日本国憲法三一条及び三六条の根底にある罪刑均衡の理念に反する。そうすると、関税法の右規定を適用する結果として憲法の趣旨に反する場合がありうることを認めざるをえないであろう。このような場合には、関税法の右規定をそのまま適用することは憲法に違反することになるといわなければならない。本件は、まさにそのような場合にあたると考える。すなわち、本件の場合、追徴は被告人から不正な利益を剥奪するためであるとはいえないから、懲罰のためであるというほかないが、それが懲罰として過酷であることは、一、二審とも認めているとおりである。そうだとすると、本件において関税法の右規定を適用して追徴を科した原判決には、違憲のかどがあるとしなければならない。(なお、本件において追徴を科することができないとすると、過酷でない程度の没収・追徴を科される他の事件の場合と釣合がとれないこととなるが、それは法律の規定からくるやむをえない帰結であり、そのような不釣合の解消は、部分的、割合的な没収・追徴を可能ならしめるような立法措置にまつほかないであろう。)

(藤﨑萬里 団藤重光 本山亨 中村治朗 谷口正孝)

弁護人上田誠吉、同山田一夫、同橋本敦、同細見茂の上告趣意

目次

第一点 関税法(昭和四二年法律一一号による改正前のもの、以下同じ)一一八条二項は、罪刑の均衡を破る不適正な刑罰法規であつて、憲法三一条に違反する。違憲の法律を適用した原判決は破棄すべきである。

第二点 原判決の適用した関税法一一八条二項は、憲法三六条、二九条に違反する。残虐な刑罰を科して、被告人から財産権の主体となることを事実上禁止した原判決は、憲法三六条、二九条に違反する。

第三点 追徴は貨物所有者に対してのみ科せられうる刑罰であつて、これを被告人両名に対して科した原判決は憲法三一条、二九条に違反する。

第四点 被告人らに罪刑の均衡を破る不適切に高額な追徴を科した原判決は、憲法三一条、二九条、三六条に違反する。

第五点 原判決は判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認および法令の解釈適用の誤りがあり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反する。原判決を破棄し、無罪の判決をすべきである。

第六点 関税法一三八条一項但書一号は憲法三一条に違反する。

第七点 本件告発は憲法一四条、一九条に反する。

第一点〜第三点<省略>

第四点 被告人らに罪刑の均衡を破る不適切に高額な追徴を科した原判決は憲法三一条、二九条、三六条に違反する。

一、原判決は被告人会社および同朴福根から金八、八八六万一、八八六円を、被告人会社および同朴正浩から金六、七二五万二、〇三一円をそれぞれ追徴する旨を言渡をした。

二、関税法上の没収・追徴規定を具体的事案に適用した結果、それが憲法三一条、三六条、二九条の保障に反する過酷な制裁を科する結果となる場合には、裁判所は、そのような追徴を科する裁判を憲法三一条、三六条、二九条に反するものとして拒否すべきである。

三、原判決は「改正前の関税法一一八条二項の必要的追徴の規定が合憲有効なものである以上、具体的事案が右条項に該当する限り、当然に同規定を適用すべきものであり……原判決(一審判決)のいう「超法規的刑罰阻却事由」の理論はこれにより法の明文がなくても前記必要的追徴の規定の適用を排除できるというのであり、具体的事案により裁判所に実質上の裁量権があると認めた点で立場を超える権限を是認することに帰着するから三権分立の立前からも到底許容されない」旨判示している。

しかし、裁判所は、適用を求められている法律の合憲性を審査する権限をもつている。この権限の行使にあたつて、ある法令の解釈作業を通じて、ある一定の解釈をおこなうことによつて、必ずしも法文の字義どおりではない法を発見、認識し、その解釈を通じてえられた法の合憲性をみとめる場合がある。限定解釈論の方法の多くはこれにあたり、最高裁もまたときとしてこの方法を用いていることは周知のとおりである。

そして、限定解釈論をとつた結果として、認定された事実に対する法の適用を拒否するのである。

さらに、一応の合憲性がみとめられた法令であつても、法は決してその適用すべき現実の多様な総体を認識して立法されているのではないから、特定の場合にその法を適用することが他の憲法の条規との抵触を生じたり、あるいは「法の基底とする正義と衡平の理念」にてらして、到底許されえない場合が生ずることは避けがたい。この場合、「法の基底とする正義と衡平」を法でないと考えてはならない。それもまた裁判所の準拠すべき法であることは疑いない。

このような場合に、法の適用をおこなうことは裁判自身を違憲ならしめ、不正のものたらしめることとなる。裁判官の負う憲法尊重義務に違反することとなる。適用違憲論とよばれるものの多くはこれにあたるであろう。違憲立法審査権とはこれらをひろく含んでいる。

これは決して三権分立に反する立法権の侵犯でもなければ、裁判官による立法をみとめることでもない。

一審判決は「いわば超法規的(広義の)刑罰阻却事由があるものとして」という語を用いている。この言葉は、括弧づきでつかわれており、また「いわば」という言葉を冠することによつて、ある種の意味をもたらせている。

「超法規的」とは、超法規的違法性阻却論にみられるように、「明文による直接の規定」がない場合であつても、法益均衡や、行為の動機・目的・態様・程度などをひろく検討した結果として、違憲性を欠くものと判断するのであつて、その「超法規的」とは、ただ「明文による直接の規定」がないにもかかわらず、より高次かつ広汎な検討のうえにたつて、特定の場合に違憲性を阻却すべき法源を見出すのであるから、それは「超法規的」であつても決して「超法的」であるのではない。

本件の場合も同様であつて、一審判決が「いわば超法規的(広義の)刑罰阻却事由」ということの内容は、「残虐な刑罰を禁じている憲法三六条の規定の精神と法の基底とする正義と衡平の理念に照らし、到底容認されがたい」とする判断にあることは疑いないのである。したがつてこれは一種の適用違憲論である、というべきであろう。

そもそも立法の形式自体が裁量的没収・追徴であるならば、本件のような深刻な問題は発生する余地がないのであつて、これが必要的、一律的没収・追徴の立法形式を採つているからこそ、そこに適用違憲論による審査の途がひらかれてくるのである。原審判決は、合憲の法(大前提)があり、事実(小前提)がある以上は、法の適用という結論を出すのが当然だ、という単純な判決三段階論法のようなもので、「自動販売器的、機械的裁判観」(団藤重光「法学入門」現代法学全集)の域を出るものではなかろう。

四、原判決は、「正義と衡平の理念」というような、抽象的不明確なもの」で法条の適用の可否を決定することは却つて衡平性および法的安定性を阻害するという。

しかし、本件の場合に、被告人会社と二人の被告人に罰金と懲役刑を科するほかに一億五千万円をこえる追徴を科して、会社を倒産に追いこみ、二人の勤労者を終身債務奴隷におとしめることの合理性は、いつたいどこにあるというのであろうか。それは、法律があるからだ、という理由ではたして法的に許容されうることであろうか。これはやかり憲法三六条と正義と衡平の理念が許さないところであろう。こう考えるのが健康な憲法的思考である。

この場合、刑罰法規適用の主観化という危険は存在しない。むしろそこには憲法運用の実在化がある。法的思考の健康さ強じんさがある。

一審判決は、例えば本件の場合の逋脱額と追徴額との比較を行なつているが、それが一体どの程度まで懸隔があるときに適用違憲となるかについて触れるところがない。これは本件のような適用違憲論の判断に特有のことであつて、むしろ当然のことである。もし一審判決が何かその判断の基準となるような準則に言及したとするならば、その方がかえつて裁判官立法の非難をうけるのは必至であつた。一審判決の判断は適用違憲論の節度を厳守したものである。またこの点こそが合憲限定解釈論と異なる重要な分岐点であつて、その意味では一審判決はあくまで本件限りの、まことに司法的自己抑制をわきまえたものというべきである。

第五点〜第七点<省略>

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